大企業と大学発スタートアップの協業が生んだ“走る”を変えるテクノロジー

2025.06.27
#事業開発ニュース

スポーツテック——それは、スポーツ分野におけるテクノロジーの活用や革新を指す言葉だ。競技のパフォーマンス向上、観戦体験の拡張、データ解析、健康管理など、幅広い領域で注目されており、あらゆるスポーツメーカーがその可能性に目を向け始めている。

こうした流れの中で近年注目を集めているのが、大企業とスタートアップの協業によるイノベーションである。新しい技術を持つスタートアップと、豊富な現場知見やブランド力を備えた大企業が手を組むことで、社会実装に直結するプロダクトやサービスが次々と生まれつつある。

今回紹介するのは、総合スポーツ用品メーカー・ミズノと、慶應義塾大学医学部発の医療スタートアップのグレースイメージングが協業して生み出した「LacttoRUN30(らくっとらん30)」。ランナーの間で“30kmの壁”と呼ばれる限界を、汗から乳酸をリアルタイムで計測することで科学的に乗り越えようとするこのサービスは、異なる専門性と立場を持つ2社がタッグを組むことで実現された、スポーツテック時代の象徴的な取り組みだ。

このサービスがどのように立ち上がり、どのようにテクノロジーが組み込まれているのか。その裏側を、立ち上げメンバーのインタビューを通して読み解いていく。

走る楽しさをテクノロジーで支える——ミズノが挑む“30kmの壁”

ミズノがスポーツテック領域への挑戦を本格化させていることには理由がある。長期的には少子化によってスポーツ人口が減少し、マーケットの縮小が避けられないという危機感があるためだ。同社の中期経営計画にも、スポーツテック領域における新規事業への挑戦が明記されており、経営のコミットメントも明らかだ。社内ベンチャーやスタートアップとの協業を通じて、新たな領域へと積極的に手を打ち始めている。

その一つが、汗乳酸計測およびトレーニングサービス「LacttoRUN30(らくっとらん30)」だ。

「フルマラソンを走ると、30kmあたりから急に足裏が痛くなったり、膝が動かなくなったりする人が多いんです」。そう話すのは、ミズノスポーツサービス事業開発推進部の中嶋南紀氏。フルマラソンにおいて、多くのランナーが30km付近で急激に失速する現象は“30kmの壁”と呼ばれる。その克服に挑むべく開発されたのが、「LacttoRUN30」だ。

運動によって体内で増加する乳酸。この乳酸の血中濃度が急激に上昇し始めるポイントをLT(Lactate Threshold、乳酸性閾値)と呼ぶ。このサービスではランニング中に発生する乳酸を微量の汗からリアルタイムで検出し、濃度が急激に上昇し始めたランニング速度を計測することで、適切な走行ペースやトレーニング方法を科学的に導き出す。

“30kmの壁”は、走る楽しさが苦痛に変わるタイミングでもある。この壁を越えられず、フルマラソンの目標を達成できないランナーも少なくない。「LacttoRUN30」は、「楽しんで走る」ことをテクノロジーの力で支えるスポーツテックのソリューションなのだ。

汗から乳酸を測る? ランナーの限界を「見える化」する新しい測定体験

「LacttoRUN30」とは、具体的にどんなサービスなのだろうか。
測定方法はシンプルだ。まずは、マラソン歴や自己ベストタイムなどを記入する情報シートに回答する。続いて、計測デバイスを装着した状態でランニングマシンを走る。耳に心拍センサーを、上腕には汗から乳酸を測定するウェアラブルデバイスを装着することで、走行中の乳酸値をリアルタイムで計測できる。

計測は、ウォーミングアップを経て、まず時速6kmからスタート。1分ごとに時速1kmずつスピードを上げていき、負荷が上がり始めたところで0.5km刻みに切り替える。

実際に計測してみたところ、ランニングマシンの速度が時速11kmに近づいたころに息が上がり、汗が噴き出してきた。耳に装着した心拍センサーと、上腕の乳酸センサーが連動し、負荷が上がったタイミングで乳酸値が急激に上昇。「きついです」と申告した瞬間、見ていたモニター上でも乳酸値の変化がはっきりと確認された。データとして“限界”を捉えられる体験は、被験者にとっても新鮮だ。

約30分の計測後、推奨トレーニングペースや完走予測タイムが書かれた計測結果シートが手渡された。今回の場合、LT速度は「9.2km/1時間」と判定され、そこから「まずは6分30秒/kmのペースで20km走を週1回。慣れてきたら、6分10秒でのインターバル走を」など、具体的なトレーニングメニューも提案された。

このように、「LacttoRUN30」は単なる身体測定にとどまらず、ランナーの目標や走力に応じた練習計画の提案まで含まれている。走る楽しさを知ってもらい、長くスポーツを楽しんでもらうことが、将来的に会社に恩恵をもたらすのである。

ランナーとの対話を重ねたイノベーション

このサービスがスタートしたのは、中嶋氏の「30kmの壁をなんとかしたい」という思いからだった。サービスの原型ができたのは2023年頃。ミズノグループ内のアクセラレーションプログラムに参加した社員が中心となり、「30kmの壁を超える」という部署横断のチームを結成した。

課題解決の方法を模索する中で、着目したのが「乳酸の計測」だった。じつは中嶋氏は大学院時代に生理学を学び、かつては血液を使った乳酸測定の経験があったという。そんな折に出会ったのが、汗から乳酸を計測できる技術を持つスタートアップ企業「グレースイメージング」だった。

「いくら小さな針でも、何度も刺すのは痛いし、指導現場では非現実的でした。だからこそ、汗で計測できる技術を見つけたときは“これは使える”と直感したんです」(中嶋氏)

グレースイメージングは慶應義塾大学医学部発のスタートアップ企業だ。代表の中島大輔氏は2015年から汗から乳酸を計測する研究を始め、測定器を開発。その後スタートアップとして独立した。もともとは医療分野での運動療法の現場向けに設計されていた測定器だったが、ミズノからの相談を機に、スポーツ向けでの応用を目指して「LacttoRUN30」のプロジェクトが動き出した。従来は血液でしか測定できなかった乳酸を皮膚上の微量の汗から計測できるのが特徴だ。

ただし、乗り越えるべきハードルもあった。血液との関係について医学的なエビデンスが限定的だったため、サービスに耐えうる信頼性を示すにはより多くのデータが必要だった。そこで約半年間にわたって、グレースイメージングと共同で実証実験を重ねた。

「この技術が本当に使えるのか、何カ月間も複数のランナーで試しました。最初の段階ではランナーごとに様々な傾向のデータが出て、“何が原因でこういう数値になるのか”を突き詰める必要がありました。そこから徐々に傾向が分かるようになり、サービスとして提供できる手応えがつかめました」(中嶋氏)

サービスにするには、データの“見せ方”も考えどころだった。「『単に数値だけを見せたら不安になってしまうかもしれない、と悩んだ時期もありました」中嶋氏はそう振り返る。初期段階ではランナーとの対話も重ねながら、トレーニングメニューやフィードバックシートの内容を細かく調整。「“苦しくないけど効果がある”と実感できるかどうか」を重視し、計測結果がそのまま行動変容につながるように設計された。

リリース後は、さいたまマラソンなどと連携し、フルマラソンを目指す一般ランナーへの提供がスタート。予約枠がすぐに埋まるほどの反響を呼んだ。現在は「MIZUNO TOKYO」(東京・神保町)と「ミズノランニングヨドヤバシ」(大阪・淀屋橋)の2店舗で計測できるが、平日夜や休日に測定を希望する人が多く、40代以上の市民ランナーの利用が中心だという。「コロナ禍でランニング人口が一時的に増えたものの、マラソン大会が開催できない時期が続きました。コロナ禍が落ち着き、大会が再開されても久し振りの参加で、“30kmの壁”を超えられずに悩む人が多かったようです。そんな人たちに、このサービスはフィットしました」と語る。今後は他のスポーツへの展開も視野に入れているという。

全く異業種の大企業とスタートアップが協業し、スポーツテックに新たな地平を開いた。異なる強みを持つ企業同士の協業が生むイノベーションは、こうして私たちの身近な日常を、静かに、しかし着実に変えつつある。

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