複合現実のプラットフォーム「Auris」に 秘められた大きな可能性

2024.08.09
#起業家インタビュー

百聞は一見にしかず。本当にそうだろうか。ときに音声は、視覚以上に「現実」を伝えてくれることがある。VR、MRに魅せられ、その可能性を信じる男は、「空間に音を置く」という発想で新しい時代の扉を開こうとしている。だが、これまでの道程は決して平坦ではなかったという。

雑居ビルのなかで海に潜る

約束の時間に、秋葉原の古い雑居ビル。エレベーターもないその建物の狭い階段を4階まで上がる。すると、そこに「複合現実クラブ」と書かれた、やはり古いドアがあった。最先端のVR技術を扱うスタートアップ企業を訪ねたつもりが、怪しげな秘密クラブのような部屋にたどり着いた。恐る恐るドアをノックすると、株式会社GATARIの竹下俊一CEOがドアを開け、迎えいれてくれた。

「こんにちは。いろいろお話をする前に、まずは『Auris(オーリス)』を体験してみませんか?」

名刺交換もしないまま、アイウェア型ヘッドフォンとスマートフォンを渡される。思いのほか広々としたその部屋の奥には、接客用のテーブルと椅子が置かれている。ドア側の空間にはいくつかのオーディオ機器と小さなソファが置かれていて、床にはテープでいくつかの印がつけてあった。竹下氏の指示に従い、スタート地点だという✕印の前に立つ。すると、右手に置かれたソファのあたりから男性の声が聞こえてきた。

「困ったな。どうしよう……」。いきなり聞こえてきた声につられるようにソファに近づくと、彼からある相談を受けた。いわく、恋人に贈るつもりだった指輪をなくして困っている。だれか見つけてくれないかとのこと。すると、左手の遠くから海の波の音が聞こえてくる。どうやらその海で彼は指輪をなくしたらしい。もちろんそこにはソファがあるだけ、海の音が聞こえるほうにも壁があるだけだ。だが、壁の方向に足を踏み出すとどんどん海が近づいてくる。

驚いたのは、その海辺でしゃがんだときのことだ。「ブクブクブクブク……」。立っていたときは波の音が聞こえていたのに、姿勢が低くなった瞬間に海中の音に変わる。秋葉原の雑居ビルの一室にいるはずなのに、なんだか息苦しくなるような錯覚に陥る。その海中に落ちていた指輪を回収し、ソファの男に渡す。音に従うだけのミッションなのだが、立体的でリアルな音により、思いがけない臨場感、そして楽しさを味わった。

いつでも、誰でも、どこにでも

「Aurisは、ワンストップで実現可能な世界初の複合現実(Mixed Reality)のプラットフォームです。空間のスキャンから空間編集(トリガーとアクションの配置)、クラウドへの保存、マルチプレイヤーでの復元・体験までをスマートフォンのアプリケーション上で行うことができます。大掛かりな設備を使うことなく、空間のなかに音声を“置く”ことができるといえばいいでしょうか。空間のスキャンさえできれば、数センチ単位で違う音声を置くことができますし、海の上と中といった上下で違う音声を置くこともできるんです」

指輪を探しに行った空間は、わずか3〜4メートル四方。その狭い空間で5、6種類の異なる音声を耳にした。しかも使ったのは、ヘッドフォンとスマホのみ。もっと広い空間で、もっとたくさんの音声を聞くことができたら、そしてそこにさまざまなストーリーがあれば、どんなに楽しいだろう。この「Auris」を竹下氏は、“いつでも、誰でも、どこにでも作る”ことができる自由度の高いオーサリングツールとして開発してきた。

「一般的なスタートアップだと、ターゲットユーザーを決めて、その課題に向けた機能を開発して、実証実験を繰り返して、そのフィードバックで完成度を上げていくというやり方、いわゆるイシュードリブンな進め方をします。でもうちの場合は逆で、まずVRによって世界はこうなるという思想、ビジョンからスタートします。そして、その世界の中ではこういう使われ方をしているはずだという仮説からユースケースを発見していきます。プロダクトアウトではなく、いわば“ビジョンアウト”です。使い方をみんなに見つけていただいて、そこでAurisが価値を発揮して、ビジネスを生む。そのためにコストをかけずにすぐにユースケースを試せるような汎用的な仕組みを作ってきました」

自己資金を切り崩しながら

竹下氏がVRに出合ったのは、2015年、東京大学の3年生のときだった。

「就活イベントでVR体験をしたんです。自分の脳がこんなに騙されるのかということに衝撃を受け、人工的に現実を作り出せるのであれば、たとえば『どこでもドア』を物理的に実現できなくても、それと同じ“現実”の体験は作り出すことができる。世界自体を変えなくても、世界の見え方を変えることで、世界を変えられる。そこには無限の可能性があると感じました」

GATARIを起業したのは、2016年。だが、事業はなかなか前に進まない。VRスタートアップを取り巻く環境は決して芳しいものではなかった。

「投資家から見れば、VRのスタートアップでうまく行っている事例がない。だからVRという領域自体がすごくネガティブなイメージになっていた。そんな環境で投資家に頼るような事業運営だと自分たちのコントロールを失うかもしれないと考え、自己資金を切り崩しつつ、企業の開発協力の補助をしたり、大学の仕事をもらったりしながら、なんとか会社を維持していました」

当初は、VRやMRのデバイスの開発を目指した。だが、他社から先行する商品が発売されたことをきっかけに考えを改めたという。

「実際に使うとすごい商品だと思うんですが、汎用性、実用性という意味では疑問が残る。このままデバイス依存の状況だと、VRはなかなか前に進まないんじゃないかと思いました。VRゴーグル、ヘッドセットは1人1台の時代になると、もう何年も言われていますが、私自身がそんなふうに思えなくなってしまって。そんなとき、大学案内のツアーをMRで実施した経験から音声がMRに適しているということに気がついたんです。考えてみると、耳から始まるアプローチって入りやすいんです。ラジオがあったからテレビにつながったし、iPodがiPhoneに進化していった。そこで聴覚に限定したデバイスを作ろうと思っていたら、今度はオーディオメーカーから同じコンセプトの商品が出てきた(笑)。でも正直言うと、ちょっとホッとしたんですよ。デバイス、ハードウェアの開発は、お金も時間もかかって本当に大変。それを機に思い切ってソフトウェアの開発に切り替えることにしました」

まだよちよちの赤ん坊

多くの人が持っているスマホとヘッドフォンで、MRを実現する。こうして2020年、Aurisのプロトタイプがリリースされることになる。飛躍のきっかけは、同年に開催されたインキュベーションプログラム「HANEDA INNOVATION CITY BUSINESS BUILD」だった。このプログラムに採用されたGATARIは、鹿島建設の協力のもと、同社が保有する3次元建物データを用いて、羽田みらい開発株式会社が開発・運営する大型複合施設「HANEDA INNOVATION CITY」で提供する音声ガイドやARナビゲーション、未来の自分にメッセージを届ける「思い出絵馬 AR」などのサービスを開発した。

「鹿島建設の方から、この施設を好きに使っていいからいろいろおもしろいことをやってよと言ってもらって本当に自由にやらせていただきました。あの羽田での取り組みがあったから、いまがある。MRって体験してもらえないと伝わらないのが弱点なんです。いくら言葉で説明してもわかってもらえないから売り込むのも大変(笑)。この『複合現実クラブ』を作ったのも、まずはAurisでなにができるかを体験してもらうためなんです。HANEDA INNOVATION CITYでは、多くの人にAurisを体験してもらえたことで、そこから一気にいろいろな依頼が舞い込むようになりました」

現在は、動物園、博物館、水族館、美術館などの教育・文化施設や、寺院、ホテル、スタジアム、城郭などの観光関連施設やイベントで新しいスタイルの音声ガイドやエンターテインメントを手掛ける。地下鉄構内や書店を舞台にしたストーリー性の高いエンターテインメントは、大きな話題になった。

「僕はMRが世界を変えると信じているので、そこに殉じるつもりでやっています。将来思い描いている姿から今のAurisを人間にたとえると、まだまだよちよち立ち上がったのかなというくらい。自分たちもパートナー企業も利益を得て、そのうえで社会に価値を提供できるようになってきました。これまで現実の空間ってフィジカルしかなかった。でもデジタルを使えば、人によって違う世界を作ることができる。個々人にとって最適化した“現実”を創出できる。現在Aurisの使い道は、エンタメ系やガイドなどが多いですが、教育や福祉、障害を持つ方のノーマライゼーション、バリアフリー化にも活用できるのではないかと思っています。エンタメをきっかけにAurisに触れた人が新しい使い方、より多くの人に幸福をもたらす使い方を考えてくれたらいいなと思っています」

竹下氏が言うように、Aurisの可能性を知るには、それを体験してみるしかない。だが、一度体験すれば、そのテクノロジーに誰もが驚くはずだ。未来を変えるかもしれない「音」を、あたなも聞いてみてはいかがだろうか。

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